母の偉大さ

おはようございます!横浜本牧パーソナルトレーナー宮原崇です。

今日は昭和の日ということで、少し昭和のお話をしたいと思います。

昭和63年(1988)に台湾から日本帰国しました。

その頃には日常生活での使用言語は中国語と台湾語になり、日本人ひとりの中、台湾の田舎に溶け込んでいたのだと思います。

5歳時に知らない異国の地に置いてかれた時は、この世の終わりかのような感覚でしたが(笑)、数年たち、いざ日本に帰れるとなった時は、周りに帰りたくないと言っていたの、まさに住めば都です。

昼寝をしている間に母は日本に帰国してしまったのですが、それなりに深い事情がありました。

私は昭和54年新潟県佐渡島の佐渡病院で日本人の父と台湾人の母の間に生まれました。

両親は私が2歳前後で離婚しているで、私は父の顔は写真でしか見たことがないですが、いつか会えることを願っております。

現在、私自身が妻子を持って見て、改めて母親に対する尊敬の念が湧くようになりました。

当時、私を育てるために、草加煎餅のパートから始まり、池袋で「金馬車」という台湾料理とカラオケ店を営み、私を台湾に預け、3年後には横浜に移り住みました。

成田空港に私を迎えに来た時はビジネスパートナーと一緒にトヨタのセンチュリーで迎えに来たことを考えると、母は3年のうちに成り上がったのでした。

母はそこから、横浜関内で「水乃江」というお店を12年営むことになるのですが、当時の家賃が50万円、従業員も数名雇っていたので、相当努力したと思います。

横浜の港湾を代表する藤木企業の役員の方たちも母のお店に通われていたので、どれだけ懸命に頑張っていたのかと思うと、勇気が出ます。

こうして、過去を振り返ることによって、母が生きている間に沢山親孝行をしたいと思います。

本日は以上です。

貴重なお時間を誠にありがとうございました。